2015年1月26日月曜日

留学に至った理由

 「余は如何にして留学生になりし乎」
なんて言ってみましたが…めちすけが留学に至った理由には、以下のような背景が
ありました。

大学2年生から3年生に上がる前の春休み、縁あってアメリカに3週間ほど行く機会を
得ました。LA→San Diego→Arkansas→Washington D.C.→Boston→San Franciscoと
渡り歩き、LAではPomona College, ArkansasではHendrix College, Washington D.C.では
Univ.Delaware、BostonではMITを訪れて一部では授業も受けさせてもらいました。
(当然チンプンカンプンでした)
その時は、アメリカもいいなあと思った程度で特に留学しようとも思いませんでした。

めちすけは工学部だったので、3年生になると実習やら何やらが多く、こりゃあ大学院に
行かないと世間に通用しなさそうだなと感じたのを覚えています。4年生になると、運良く
希望の研究室に配属となり、卒論の準備をしつつ大学院入試の勉強を始めました。

で、その7月だったかな…転機が訪れました。指導教授の共同研究相手(アイオワ大学
の教授で、留学時代の私のボスとなる先生)が日本に来て、うちの大学で打ち合わせを
やりました。めちすけはその時、会場やレストランの手配、来られたゲストの駅までの
送迎をやっていました。大学院入試の当落線上だったので、「勉強さしてくれよ!」と
イライラしながらも、自分なりに拙い英語でお相手をしました。

で、その先生が別れ際に"Why don't you come to Iowa?"とか何とか言ったんです。
その時は社交辞令だと思って、ワハハ、イエースとか適当に応えていました。
その後、一旦はそのことを忘れ引き続き勉強を続け、その甲斐あって大学院に無事
合格しました。
その1週間後くらいだったと思います。

合格の余韻に浸っていためちすけの元に、そのアイオワ大学の教授からメールが
届きます。

「あの話、どうなった?本気で考えてくれたかい?」



…!!!











当然焦りますし、揺れました。
正直、理系の大学院生で修士課程まで行けば、当時は学校推薦枠も豊富で、ほぼ
間違いなく有名企業と呼ばれる会社に就職できる道がありました。
The 安定な未来でした。

でも、ハテと思ったのです。このまま、The 安定の道を俺は歩んでいいのかい?と。
めちすけが大学院入試の勉強をしていた頃、修士課程2年生の先輩方は、授業も
そこそこに就職活動をしていました。修士課程1年生の先輩方は、卒論から解放
されてバイトを再開していました。これを見ていて、思ったんです。

このまま大学院生になっても、道は見えてる。多分、修士1年目はバイト&授業という
大学生の延長のような形で終わる。修士1年目の終わりから2年目の7月前くらいまで
は、就職活動を延々と行う。若しくは、学校推薦で何の苦も無く内定が取れてしまう。
で、8ヶ月程度修士論文のための研究をして、大学院を修了する…

この、「先が見えちゃってるぅー!」という感覚に違和感を覚えたわけです。
このままでいいのか?と。
研究がしたくて大学院に進んだのに、実質研究に費やす時間は2年のうち8ヶ月程度。
本当にそれでいいのか俺?

こう思った時点で、めちすけの心は決まっていました。
「どうなるか分からんが、先は見えないほうが面白い。研究も出来そうだし。」
なので、アイオワ大学の教授には

「宜しくお願いします。TOEFLの勉強、やります。」

とメールを出し、学部の指導教官にも相談し、アイオワ大学留学を決めたのです。
ただ、博士課程まで行くのか?という不安はありました。
その不安も、学部の指導教官も

「君が帰ってくる頃には、間違いなくその分野で日本一になってるよ」

との言葉で、払拭とまでは行きませんが、そういう心持ちになりました。
以上のような経緯があって、余は留学生となったのです。

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